いなくなるスプレー

友人のY君が自殺をした。首つり自殺だったらしい。家族には一切そういうそぶりを見せず、普段通りに夕食を食べ、翌日車に乗って外出し、そのまま帰ってくることはなかった。

 

Y君とは小学生時代からの友人だ。僕は基本的に友達が少ないし、高専時代は寮に入っていて、就職してからは県外に居たので、地元で心許せる友人はY君しか居ないと言ってもよかった。

 

田舎とはひどく閉鎖的な空間である。一度そのコミュニティから外れてしまった人間の居場所はあまりない。僕は田舎の、同級生のコミュニティからは完全に外れてしまってした。そしてY君はそもそもコミュニティに属していなかった。彼はそういうものに一切興味がなかったからだ。成人式にも出てこなかった。実に彼らしいな、とその時感じたことを覚えている。

 

Y君との共通の趣味は、ジーンズと音響機器と自転車、そして釣りだった。

 

中学生くらいの時には一緒にマウンテンバイクで走り回った。未だに自転車が好きなのは、その時に感じた自由さを身体が覚えているからかもしれない。

お互い競い合うようにレプリカジーンズを穿き、その色落ちを競い合った。僕はエヴィスジーンズを、彼はサムライジーンズを、くっそ暑い夏場も、凍えるような冬場もずっと穿いて、洗剤には漂白剤の含まれていないものを使い、丁寧に洗って干した。Y君は足が長くて、僕は短足だったから、裾の長さがあまりにも違って閉口したものだ。

音響機器も好きだった。お互いにヘッドフォンを聴き比べしたりしたし、僕が高専の時に自作したヘッドフォンアンプをずっと使ってくれていた。彼の愛用していたヘッドフォンはゼンハイザーのHD25だったと思う。

 

上記趣味をみれば何となく感じると思うが、彼は凝り性だった、僕と同じで。ひたすらに一つのものをずっと使い続け、味わいがでるまで大切にし続ける人間だった。本当に自分が吟味して気に入ったものだけを、手入れしながらずっと使い続けていた。部屋はいつも清潔に清掃されていて、彼のフィルターを潜り抜けることができたほんのわずかなものだけが、ピカピカな状態で鎮座していた。

 

Y君と僕は親友だった。と思う。というのは、世間で言われているようなわかりやすい友人関係ではなかったからだ。

悩み事や相談事を打ち明けあったり、バーベキューをしたりということも全然なかった。

ただ、お互いに語るべきこと、語らなくていいことはなんとなく感じあっていて、遊んでいてもそんなに会話は多くなかったが、とても心地が良かった。

長い期間の間にできた関係性というのはそういうものかもしれない。とても穏やかな空気の中で、最近やってるゲームとか、自転車のパーツの話とか、そういうどうでもいいことをだらだらとしゃべりながらお酒を飲んだ。

 

後年になって、彼と僕の趣味に釣りが加わった。別に照らし合わせたわけでもなく、偶然だ。近所には汽水域の池があったから、僕はそこでルアーを延々と投げた。そしていつだか忘れたが、お互いにルアーフィッシングをしていることが判明して、二人してルアーを投げることになった。

二人で釣りに行っても会話はほとんどなかった。ほとんど波もない池に、ずっとルアーを投げ込む音だけが聞こえた。2時間くらい二人で無言で釣りをして、「いやぁ今日は釣れんかったな」と笑いながら解散することが多かった。なぜか二人で釣りに出掛けたときは全然釣果がなかった。でも楽しかった。僕が仕事でメンタルをやられていた時でも、二人で無言で釣りをしている間に、心のトゲトゲが少しずつほどけていくような気がしたからだ。

 

2週間前だ。Y君から「今日遊びに行っていいかい?」というLINEが来たので「ちょうど暇だからいいよ」と返した。近所のスーパーでお酒とつまみを買い、僕の部屋で飲んだ。完成したばかりの自作PCでSteamのゲームをやってみせて、「最近のグラボはすごいやろ?」とちょっとばかり自慢をしたのを覚えている。

その日は僕の体調が悪かったから、「今日はここいらでお開きにしようか」と言って、早めに切り上げた。結局全部のつまみを食べきることはなかった。彼は残ったつまみをグレゴリーのバッグに入れて、持ち帰った。

 

僕らは「グッドラック」とお互いサムズアップしながら別れる。いつの頃から癖なのか、もう思い出せない。でも毎回行っている。確かこの時は、「次回は釣りに行こう」と言ったあと、サムズアップして別れたんじゃないかな。ご武運を。

 

 彼は自殺を決行したその日、ホームセンターでトラロープとルアーを買っていた。直前に遊んだ時の会話の中で、「やっぱりあの池はホームセンターの激安ルアーしか釣れないよね」「おそらく謎の波動が出てるんだろう」という会話をしていたから、どのルアーを買ったかは容易に想像がついた。そしてその買ったルアーは使用されていたらしい。たぶん彼は人生の最後に釣りをしたのだ。ホームセンターの激安ルアーで。

 

僕は今日通夜に行く前に、そのホームセンターに寄って同じルアーを買った。そのルアーは鉄板バイブレーションだ。いつも釣りをしている池は水深が浅く、根掛かりが多く、たくさんルアーを失う場所だった。バイブレーション系のルアーは沈んで底を狙うので、よりロストしやすかった。たぶんY君は三途の川でも釣りをするだろうから、ルアーの予備はたくさんあったほうがいいだろうと思ったのだ。

 

棺の中の彼の顔を見た。少々顔色は悪く、表情もしかめっ面な気もしたが、まるで寝ているみたいだった。まぁ寝苦しい夜が続いてるからそんなもんだよね。またしばらくしたら「今日の夜釣りに行かない?」ってLINEが来そうな、そんな顔だった。

 

 

 

7月の頭、『蚊がいなくなるスプレー』を部屋に撒いたら蚊がまったく現れなくなった。

7月の中旬、京アニが放火されて、尊敬していたクリエイターがたくさん亡くなった。

8月の頭、親友が自殺して、遊べる友達がいなくなった。

 

この一か月くらいで、僕はたくさんのものを失ってしまったような気がする。心のどこかにあった何かがぽっかりと穴をあけている。でもその失った何かが、何なのかさっぱりわからない。「ただそこに何かが存在していた」という確信はあるけれど、それが何なのか全くわからなかった。時間が経てばそれが何なのか、はっきりわかると思う。でもそれが今の僕には一番こわい。

 

僕はこれからジーンズの色落ちを誰に報告すればいいんだろう。

新しく買ったイヤフォンの音質を誰に聞いてもらったらいいんだろう。

ちょっと夜サイクリングに出かけたくなったとき、誰をさそったらいいんだろう。

いったい誰と、釣りをすればいいんだろう。

 

 

ただただひたすらに、今は寂しいよ。