『いまさら翼といわれても』感想

 『氷菓』から連なる米澤穂信古典部シリーズの最新作、『いまさら翼といわれても』を今更読んだ。なぜ今更かというと、今回読んだのは文庫本で、単行本が出版されたのは2016年だからである。3年越し。僕はハードカバーの本があまり好きではないのと、古典部シリーズは文庫で集めているので3年待つことになってしまった。

(全然関係ないけど、この文庫を数年後に出す、という出版形態はもう古いと思うので、値段上げてもいいから単行本出版と同時に出してしまったらいいと思う。森博嗣とかはそれを推奨していた気がするな…)

 

いまさら翼といわれても (角川文庫)

いまさら翼といわれても (角川文庫)

 

 

 

 今回は『二人の距離の概算』後、古典部の面子が2年生に進級し、夏休みを迎える直前までの間に起きた事件を収録した短編集となっている。そのため、今までの作品とはすこし手触りが違い、キャラクターの内面をより深く探っていく内容になっている。

 古典部シリーズに共通することだが、謎を解いているように見せかけて、その実やっていることは個人の秘密を暴くことである。個人の秘密とは、人に見せたくないから隠されているのであって、それが表に出ることが必ずしもいい結果を招くとは限らない。

 この短編集の中でも個人的に心を打ったのが、『長い休日』という話数である。折木奉太郎がなぜ省エネ主義になったのか、過去のストーリーを千反田に語るという中で明らかになっていく。

 奉太郎は、小学生時のエピソードにより、「自分が他人に付け込まれ、利用されやすい人間」であることを悟る。その時から、省エネ主義として「やらなくてもいいことなら、やらない」をモットーに、他人と一定の距離を保つようになったわけである。自分の心を傷つけないための処世術として。

 そのエピソードを語った後、千反田にこう伝えられる。

「でも折木さん、わたし、思うんです。…お話の中の折木さんと、いまの折木さん。実は、そんなに変わっていないんじゃないか、って」

  結局のところそうなのだ。折木奉太郎はなんだかんだでいつも他人を救っている。この短編集の他の話でも出てくるが、実はこっそりと困っている人を救ってしまっているのだ。本人が掲げている省エネ主義とは裏腹に。だって奉太郎は優しいから。

 そのことを千反田えるに告げられることによって、奉太郎は救われたのだと思う。自分の弱い部分を伝えて、それを赦してもらう(あるいは、過去の自分を、今の自分が赦す)ということ以上に、精神の救いは存在していないのではないかと僕は思う。

 奉太郎の優しさにはもう一つ優れたところがある。それは、あくまで最終的な決定権は他人に委ねるということだ。奉太郎は、推理によって他人の思考を推測することと、それによって得られた答えがその人の思考とイコールであるとは考えていない。だからヒントやアドバイスは与えても、それを相手が納得し、採用するかに対してはどちらでもいいというスタンスをとる。相手をコントロールしない、という一歩引いた姿勢は、事件の謎にのめり込み、他人に感情移入しすぎればつい見失いがちになる要素である。

 その優しさを、『鏡には映らない』『連峰は晴れているか』表題作の『いまさら翼といわれても』の中に見ることができる。

 

 青春につきものの痛さ・苦々しさを感じながらも心が温まるような、降り続いていた雨が上がっていくときのような感覚を得られる、そんな本だったと思う。

 

 ごちゃごちゃ大量に書いてきて何が言いたいかというとですね、僕は、折木奉太郎がとても大好きだということです。叫び出したいくらいに。

 

 

※めちゃくちゃ脱線してしまうけど、この本を読んだあとに氷菓のOP1を見たら、その演出意図がわかって泣いてしまった。曲名が『やさしさの理由』ってのもズルいわな…

 


[Official Video] ChouCho - Yasashisano Riyuu - 優しさの理由