映画『聲の形』の考察っぽい何か

聲の形についての考察っぽいものをつらつらと書いていこうかと思う。

 

 

正直今更ネタバレどうこうもないし、この文章を読んでもストーリーには全く触れてないのでむしろ謎が深まるのではないかと。

感想や『まともな』考察については他の人がいっぱい書いているのでそちらを読んでください。

一度観た人が再視聴する際の参考になれば幸いです。

 

 

僕は山田尚子ファンなので、山田尚子がどのように(あるいは何を目指して)アニメを作っているのかずっと考えている( By always thinking unto them. )わけなんだけども、そういう観点で語っていると考えてください。

 

 

映画『聲の形』は山田尚子作品か、大今良時作品か?

僕は漫画を最初に読んで映画を観たんだけども(1年くらい前かな)、ものすごく違和感があった。

「これは漫画である『聲の形』をアニメ化したものではない」と感じたくらいである。

初回に観た時には、原作7巻分を2時間の尺に収めるために取捨選択した結果かな?と思ったんだけど、2度目を観た時に確信した。

 

山田尚子は極めて慎重に、原作の持つテーマをすり替えている』

 

その結果として、この映画は山田尚子作品になっている。最初に感じた違和感は、そのすり替えに対して感じられたものだと。

(『けいおん!』も『リズと青い鳥』もそうなんだけど、原作をベースとした山田尚子オリジナル作品としか思えない要素が多すぎるし、その部分が評価されているんだと思う。現に、京アニの監督で名前が前面に推し出されるのって山田尚子だけでしょう)

 

具体的に書くと原作は

聴覚障害をモチーフとし、コミュニケーションに関わる問題を抱えた人たちの群像劇』

なのに対して、映画は

『石田将也はいかにして死に、いかにして生まれ変わったか』

というテーマになっている。(※個人の意見です)

 

 

…ただ、これは単なる妄想ではなくて、そういう意図を感じられる演出がかなりあるのだ。

以下、適当にそのあたりを列挙していくので参考に(?)して再視聴してみてください。

 

 

泣くべきところで泣かない将也

「君に生きるのを手伝ってほしい」

原作の中で最も感動的だと個人的に思っているのがこのシーンなんだけど、ここは映画と原作での剥離が激しい。

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原作においてはここで将也は涙を流す。

一番感動的なシーンで泣かせるというのは自然な演出だと思う。

硝子と共に泣くという部分においても、一緒にパートナーとして生きていこうという感覚を受ける。

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映画の同シチュエーションにおいて、将也は泣かない。

感動的なシーンなのに泣かない。

逆説的に『将也が流す涙にはエモーショナルな要素以外の何か意義がある』と読むことができる。

 

 

 追加されたシチュエーション

原作のエピソードを『取捨選択』したのであれば、不要なシチュエーションを付け足す必要性が感じられない。

みんなで遊園地に行く場面で、佐原と将也がジェットコースターで同席するシーンは原作にはない。

 

「小学生の頃はさ、怖くて乗れなかったんだ。弱虫だったからね」

「でも、少し見方変えてみた」

「怖いかどうかは乗ってから決めることにしたの」

 

「やっぱまだ怖いけどね」

 

佐倉は『恐怖を克服した』からジェットコースターに乗っているわけではない。結果を最初に予想して行動を決めないこと、そして選択した結果を受け入れる、という成長を遂げていたわけだ。

硝子と将也は、選択した結果に対し、後悔と罪悪感で動けなくなっている。

 

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ジェットコースターで落下しながら、笑顔で泣く佐原。ここで泣く必要は本来は無いはずである。単なる記号論の涙でも無さそうだ。

そして涙の中のハイライトをよく見ると、ピンクと青になっている。

物語の後半で硝子と将也が涙を流すシーンがあるのだが、実はそれぞれの涙の色がピンクと青なのだ。

そう考えると、佐原も何かを乗り越えた(しかも硝子と将也両方が抱えていた問題)ということを涙で表現しているように思える。

 

※すみません、ここのところかなり難しいので自分の中でもまだまとまってません。

※2020/07/31追記

別作品の批評で、『バンジージャンプは大人になるための通過儀礼、つまり幼少時代から大人への生まれ変わりのメタファーである』という感じのツイートが流れていてこのあたりもなんとなく腑に落ちた。

ジェットコースターそのものが『高いところからの落下』→『生まれ変わること』の表現だとすると、佐原が泣いている十分な理由になる。

 

 

この作品では生死と切っても切れない要素である血液を想起させる要素がたくさん出てくる。

直接的に血が出ている描写もあるが、それ以外に赤色が画面内にポツンと配置されていることが多い。(小津安二郎のカラー作品でも赤はたくさんあるから、単に画面が締まるとかそういうことなのかもしれんが…)

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硝子の補聴器も真っ赤である。補聴器のカラーもいろいろある中であえて赤を選んでいるのが興味深い。(原作では赤色であることを確認できる要素はなかった気がする)

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ちなみに小学生時代は肌色だというのも興味深いところだ。

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表立って聴覚障害をアピールすることが周りと距離を置いてしまうという母親の判断なのだろうか?

 

性的なニュアンス?

短くまとめようとしていたのにやっぱり長々とどうでもいいことを書いてしまう。

文章を書くというのは考えている以上に難しいものですね。

 

さて、あまり関係なさそうで重要なシーン、小学生時代の硝子と将也のとっくみあいのケンカのシーンである。

以前Twitterか何かで「このシーン、やたら性的な感じがする」みたいなのを見かけたような気がする。

 

まずは原作の方を見てみる。

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うん、どちらかというと殴り合いに近い気がする。二人とも血まみれだし。

 

では映画の方はどうだろう。

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うん、これは性交のメタファーですね。やたらと腰がぶつかる様子が入念にいろんなアングルから描かれている。

※動画で見たほうがよりわかりやすい。

https://www.sakugabooru.com/post/show/34533

 

そしてもう一つ原作と見比べてもらいたいポイントとしては、これは二人だけの『秘め事』だということだ。原作だと周りで同級生がケンカを確認しているが、映画においてこの行為が行われたことは二人以外には認知されていない。

 

これでまず生まれるための準備、第一段階は整った。

 

a point of the light

もうほぼ確信の部分なのでもうちょっとだけつきあってください。

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物語のはじめと終わりに出てくるこのやや抽象的な映像。

おそらく硝子と将也が並んで歩いているところだろうが、ぼやけていてよく見えない。

なんとなくだが、これ、受精卵に見えてこないですか?

そしてBGMに合わせるように脈動する音が入っている。

これは生命の誕生を表していると僕は思う。

 

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そしてこの将也が硝子の代わりに川に落ちて『死んだ』シーン。この赤い水面と、将也の体勢。これは母親の胎内のメタファーに見えるのである。※個人差があります。

 

 

聲の形

もうまとめに入ったほうがいいよね、ここまで書けばもう結論はひとつ。

将也は小学生時代に(精神的に)死んで、そして硝子と交わることで一つの円を描き、そしてもう一度この世に生を受けた。

 

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そして周りの世界を認知した瞬間、生まれた瞬間、本人にも理由がわからずに泣きじゃくるのである。

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聲の形は何の形か?

 

 

それは産声の形なのだろうか?

誰しもが生まれてくるときは意味もなく泣き叫びながら生まれてくるのだから。