『素晴らしき日々 ~不連続存在~』をクリアしたので諸々。

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素晴らしき日々 ~不連続存在~』(以下すば日々)をクリアしたので諸々メモ程度に書いておこうと思う。ネタバレへの配慮はしないので未プレイ(あるいは今後プレイする気のない方以外)の方は閉じてください。

 

 ※アダルト商品ってリンク貼れないのけ…?よくわかりません。

 

 

まず前提としてメモっとかないといけないのは

ウィトゲンシュタインをメインとする哲学書を僕は一切読んだことがない。そのため引用されてる内容はおろか、意味もわからないので都合よく解釈している。

 

・最近老化のせいか、記憶力が悪いので物語を忘れないうちにプレイし終えたいという傾向がある。とりあえず僕の今回のプレイ時間は概ね15時間くらいだと思います。他の人のプレイ時間見てるとだいたい30~40時間程度っぽいのでかなり読み飛ばしているはず。

 

・僕はメタな作品が大好きで、これもメタな作品が好きな友人に勧められてプレイしたわけだけども、メタ作品っておすすめされた時点で『メタが含まれてる』ってバイアスがかかっちゃうのでかなり初期段階で(早ければプレイする前のキャラ紹介を見ただけでも)構造がわかっちゃうってのがある。これはつらい。メタな作品をプレイすればするほど新鮮な楽しみがなくなってしまうんやで…

 

 

というのを踏まえて以下メモ書きを読んでいただければと。

どうでもいいけど、世の中前提条件のすり合わせが行われないままに不毛なすれ違いをひたすら繰り返すのを見すぎてつらくなってくるよね~

(まぁそれを題材にした作品も山程あるので人間あるあるなのかもしれん)

Twitterを開けば毎日のように地獄を眺める事ができる。

 

…どうで良すぎた。本題に入ろう。

 

 

すば日々は哲学書や戯曲等あらゆる過去の作品からの引用があるので一見難解であるが(というかそのあたりからアプローチすれば実際に難解な作品なんだろう、しらんけど)、作品そのもののギミックはそこまで難しくなく、まぁノベルゲーム等を数本やってればだいたい3章目くらいでわかってしまうくらいの内容じゃないかと思う。

 

個人的な感覚で言うと、羅生門』を『ひぐらしのなく頃に』+『ファイトクラブ』で現代的にラッピングした作品という感じ?

 

本筋としては“間宮卓司という人格は如何にして生まれ、また如何にして死んでいったか?”という記録を、何人かの主観をもとに形成していくストーリーだと僕は解釈している。

 

なので純粋にストーリーを追うだけならさほど難解でもないし、また飛び抜けて優れた作品とは思えないなーというのもある。

 

 

ただ、この作品に深みを与えているのは“プレイヤーの主観とキャラクターの主観のズレ”ではないかと個人的には感じている。

 

 

そのズレを生じさせている要素とは精神疾患とドラッグである。

 

精神疾患、あるいはドラッグ、連続性の欠如

おそらく一番読んでいて頭がクラクラとしてくるのは 第2章“It’s my own Invention” における間宮卓司の精神崩壊、更にその派生である橘 希実香エンドであろう。

 

この第2章における狂気をプレイヤーは間宮卓司の主観を以て体感することになるが、それはあくまで想像の範囲を出ない。想像することとある事象を体感することとの隔たりを意識することは日常においてあまりないので、そもそもその違いについて考えることのほうが稀なのかもしれない。まぁ人によるか。

 

僕自身が割とひどい鬱症状を患っている。そのため、なんとなく理解はできる(※あくまで個人的経験の範囲内において)のだけれども、ある精神状況に置かれている人間の認知の歪みというのは凄まじく、本人にとっては間違いなく現実なのである。後々考えるとさほど絶望的な状況ではないはずなのに、その渦中にある時にはこの世の終わりのような感覚、絶望感をリアルな感触を共って体感することになる。

 

 

誰でもわかるような例を無理やり出すと

 

『あなたは飲酒して酩酊しています。普段より朗らかな気分になり、普段なら喋らないような内容のことを誰かに話しました。飲みすぎたのでどうやって帰宅したのかもやや不明瞭な状態です。翌日あなたは酔いが醒め、「うーん、何かいらないこと喋っちゃったかなぁ」と後悔することになりました』

 

わりとありそうなシチュエーションなわけだけど

『①酩酊中、普段とは違う状態のあなたが経験した事象は虚構か?

と問われたらどう答えるか?まず虚構ではなく事実だと認識するだろう。

 

では次に

『②酩酊中のあなたの認知や処理能力、あるいは他者とのコミュニケーション能力等は普段のあなたと同じか?』

と問われたらどうなるか?これを同じだと言える人は少ないのではないだろうか。なぜなら普段と全く変わらない状態は『酩酊している』とは言わないからである。

 

さらに

『③酩酊というのは単に気のせい(あるいは気の持ちよう)であって、本人の意識でいくらでも醒ますことができるか?』

という問を投げかけられたとする。これに自信をもってYesと答えられる人間は果たして居るのか?ちょっと僕には想像つかないけれど居るかも知れない。でもまぁ大半の人間はNoと答えるのではないだろうか。

 

最後に③を反転したものであるが

『④自分の意識で(つまり飲酒せずに)酩酊状態に陥ることはできるか?』

この問を投げかけられることになる。これは100%とは言い切れないけど、まぁほぼ9割9分の人が無理だと答えるんじゃなかろうか。

 

この①から④までの問を自答すると、精神疾患の状態、あるいはドラッグ(これは僕はやったことがないのであくまで想像ですが)を使用した状態というものの想像ができるのではないかと思う。

 

プレイヤーはそのキャラクターの心理を追体験しているはずなのだが、どこまで行ってもそれは想像であって体感ではない。どうしても埋まらない溝。他人の痛みを感じることはできない。この作品における主観の狂気と、それを一歩引いた目線から観た時の喜劇性。その落差があまりにもリアルで個人的には響いた。

 

■世界の限界について

このゲームをプレイしていると『世界の限界』というフレーズが頻繁に出てくる。ウィトゲンシュタインとか知らんのでこのゲーム内での解釈で言うと『主体が認識できる範囲』ということになるだろうか。

 

きれいに収束するメインストーリー以外の部分で奇妙な終わりを見せる分岐がある。

それは『第3章(ざくろルート)におけるハッピーエンド』(ざくろがいじめと対峙する選択をすることでそもそもの事件の発端が消え、間宮卓司をとりまく事件そのものもなかったことになるエンド)と最終章である『終ノ空Ⅱ』である。

 

この2つのエンディング、無くても物語の構造にはなんら影響しないと思うんだけど、テーマの補強という意味ではこれほど強いものもない。

 

まずざくろルートについて。このルートはざくろの主観で進んでいくわけであるが、ざくろが認識していない部分で起きている(あるいは起こるであろう)ことについては一切認知されない。世界の限界なので。

 

そのためざくろが自分の意志を発揮しいじめに立ち向かい、投身自殺に至るルートが消失した瞬間、間宮卓司という人格が起こすであろう事件も消えてしまう。ざくろの主観における世界の限界からすればハッピーエンドに他ならないが、その限界の先を知ってしまっているプレイヤーからするとそのエンドを選べば話が進まなくなるので結局ざくろの自殺は避けられないということになる。

 

プレイヤーはそのゲームにおける世界の限界を何度も観てしまうが故に観たくない事実まで観てしまうことになるわけだ。ざくろが自殺にするに至ったいじめのシーンは正直気分がダウナーになってしまうほど酷なものになっている。だが物語を先に進ませるためにプレイヤーは残酷な決断をしなければならない。半ば無意識的にその決断は行われるわけだが、構造を俯瞰すればプレイヤーが悪事に加担しているというのは明らかである。つらいね。

 

 

そして『終ノ空Ⅱ』においては『水上由岐』という存在についての不可解さを音無 彩名に指摘され、その答えを得られないままに『すば日々』という作品も閉じてしまう。

 

水上由岐という存在は何パターンも存在している。主人公として振る舞うこともあれば過去の思い出として出現することもある。

 

ここら辺のメタさが好きなんだけれども、『プレイヤーが世界の限界の外から関与する(つまりゲームをプレイする)限り、水上由岐というキャラクターはループ構造から永久に出ることができず、終わりも迎えられない』という解釈ができる気がしている。

 

『向日葵の坂道』エンドに至っては会話の可能な幽霊としてずーっと残っていくわけですよ。これもう面白いを通り越して恐怖でしょ。水上由岐というキャラクターそのものがこの物語の悲劇と喜劇を体現しているようなものである。こわいね。

 

■まとめ

なんだかまとまりのない文章を書いてしまったが、個人的メモなのでよしとしよう。

結局こういうのは「僕はこう感じた」という域を出ないし、出すつもりも今後出ないだろうなという気がする。

他の人の長文考察みたいなのもチラッと読んでみたけど途中で飽きて閉じてしまった。

 

 

まぁ、そういう作品であった、ということです。