『Prey』をプレイした。
いやまぁタイトル通りなんですけどね。ベセスダが2017年に出した
『Prey』というゲームをプレイしてクリアしました。20時間くらいかかったかな。
感想としては、「面白いが、理不尽な部分がその面白さを帳消しにして苦痛を味わわせてくる」という感じです。steamでセール時に買ったので800円くらいだったんですけど、これフルプライスで買ってたら発狂していたかもしれない。面白くないわけじゃないんだけど、ゲーム設計が明らかに狂っていてそれがクリア後の感覚として「まぁ再プレイはしなくていいかな…」という感じになってしまいました。気に入っている人、すみません。個人的感覚なんです…
宇宙に一人取り残された…どう生き残る…?最高のシチュエーションや!
いやこれ設定としては最高なんですよ。なんというか全体に漂う孤独感というか、自分の身を守れるのは自分のみ、知恵と勇気で勝ち残れ(メダロット)って感じ。モーガン・ユウ、どうやって生き延びる…?ここまでは良かったのだが…
ティフォンさん、硬すぎ問題
ティフォンという謎の生命体が登場し、それがメインの敵になるんですが、これがもう、ひたすらに硬い。硬すぎ。序盤は手持ちのアイテムをすべて消費する勢いで戦わないと生き残れません。しかも倒してもあんまりアイテムのリターンがない。差し引きするとむしろマイナスなのでは?とすら感じる。なんなんやこいつら。
タレットさん、配電盤さん、もろ過ぎ問題
タロス1の中には要所要所にタレットという防衛兵器が置いてあります。ティフォンが近づいてくると自動的に対応してくれる便利なやつです。ただ、超雑魚のミミックを除くと、本当に数発殴られるだけで壊れてしまうんですよね。紙装甲。
それからタロス1は各装置がぶっ壊れています。その中でも配電盤は電撃を発しているので超危険。近づくと場合によっては即死します。どういう配電盤だよ…
両方ともニューロモッドというスキルを伸ばしてやると修復できるようになるんですが、修復の際には『予備部品』というものが必要になります。このアイテムは要所要所に落ちていたり、不要になった武器を分解することで手に入れられます。
しかし、上記のもろすぎ問題がここで足を引っ張ります。せっかく苦労して直したタロットも配電盤も、ティフォンさんの数発の攻撃でまた無に帰します。まったく割にあいません。『修復』スキルを最大まで上げることにより強化できるらしいですが、他の能力にニューロモッドを割くので手いっぱいで、結局修復スキルはMAXまで上げられませんでした。無力…
ナイトメアさん、唐突に現れすぎ問題
様々なティフォンの中でも最強、それがナイトメア。硬いし、デカいし、攻撃力が高い。そしてたいしたアイテムをドロップしないという最悪の敵。
いや、能力を強化していけば倒せるんですよ。サイコショック→ショットガンのコンボとかね。強化したモーガンさんの前では正直お人形さんみたいなものですよ。
しかし、唐突にどこにでも現れる能力が問題なんです。ミッションの中には特定の人物が生きていることで進行するものがあります。でもナイトメアはマジでどこにでも現れるんですよ。予告もなしに。
モーガンさん、自分の身は守れます。ナイトメア倒せます。倒しました。そこにはさっきまで守っていた味方の死体が…
さすがに理不尽すぎるでしょ。それでサブミッションが発生しなくなるとか、僕のプレイ関係ないじゃん!もういいよ!私Preyやめる!って気分にもなりますわな。
軍事オペレーター、ウザ過ぎ問題
後半になってくると、モーガンさんはタロス1最強の生物になります。各ティフォンももはや雑魚と化し、いよいよサブミッションや探索が進むことになる…はずなのですが…
軍事オペレーターという敵があらゆるところに出没するようになります。硬いし、複数でやってくるし、オペレーターディスペンサーという装置をなんとか封じ込めないと無限に湧いてきます。
そしてティフォンさんを倒すために使っていたサイコショック等は無力です。相手機械なので。何のためのサイキック能力だよ!一応メカ相手専用の能力もあるんですけどね、ティフォン退治に精一杯でそっちにニューロモッド回せないですよ。
あらゆる要素が少しずつズレていって、傑作を駄作に変えていく
このゲーム、各シチュエーションに対してプレイヤーの好みで対応できるというところが売りのようです。逃げてもいい、戦ってもいい、同士討ちを狙ってもいい。確かに中盤にかけてはそういう楽しさもあった。しかし、終盤はそんなことを考える余裕もアイテム的余力も全くないんですよね。メイン目標を達成しようとすると、自由な発想より資源をいかに効率的に使うかということが主題になり、そうなるとやれることはかぎられてきてしまうわけです。ティフォンを倒せば軍事オペレーターが襲ってくる、軍事オペレーターを倒せば物資が尽きる。少ない物資でタロットを修復しても主人公をエイリアンと認識して襲ってくる。完全に四面楚歌です。自分以外全部敵。ゲームクリエイターも含めて。
終わり悪ければ、すべて悪し
明らかに、序盤や中盤のドキドキ感や、どうやって難局を突破するかという創意工夫に関しては楽しいんです。神ゲーの予感。しかし、あまりにも終盤の印象が悪すぎる。いい部分がたくさんあったはずなのに、ほんの少しゲームバランスが悪いせいですべての記憶がダメな方向に書き換えられてしまう。これ、ゲームのテーマに沿ったメタ演出だとしたら大したものなのですが、多分普通にレベルデザインに失敗してるだけだと思う…
まとめ:面白いが、つらい
とにかく終盤のつらさによってゲームの感想が「あぁ、もういいわ…疲れました」という風に落ち着いてしまうのがもったいない。エンディングの内容も、SF小説を何冊か読んでいる人にとっては大して衝撃的でもないし。ダンガンロンパの方が衝撃度では100倍くらい上ですよ(これもネタバレか)。
もういっそのこと、ティフォンは不死の生物で、倒せないのでステルスに徹するしかないってほうがよっぽど納得できたかもしれない。音を出したりするアイテムやデコイでかく乱してなんとか生き延びる、ってのはサバイバル感強くていいし。
Steamでセールになってるなら買ってみるのもいいと思いますが、Portalが缶コーヒー以下の値段で買えることを考えるとこのゲーム、いくら安くても僕はもうプレイしないかな…
あくまで個人の感想です!
『いまさら翼といわれても』感想
『氷菓』から連なる米澤穂信・古典部シリーズの最新作、『いまさら翼といわれても』を今更読んだ。なぜ今更かというと、今回読んだのは文庫本で、単行本が出版されたのは2016年だからである。3年越し。僕はハードカバーの本があまり好きではないのと、古典部シリーズは文庫で集めているので3年待つことになってしまった。
(全然関係ないけど、この文庫を数年後に出す、という出版形態はもう古いと思うので、値段上げてもいいから単行本出版と同時に出してしまったらいいと思う。森博嗣とかはそれを推奨していた気がするな…)
今回は『二人の距離の概算』後、古典部の面子が2年生に進級し、夏休みを迎える直前までの間に起きた事件を収録した短編集となっている。そのため、今までの作品とはすこし手触りが違い、キャラクターの内面をより深く探っていく内容になっている。
古典部シリーズに共通することだが、謎を解いているように見せかけて、その実やっていることは個人の秘密を暴くことである。個人の秘密とは、人に見せたくないから隠されているのであって、それが表に出ることが必ずしもいい結果を招くとは限らない。
この短編集の中でも個人的に心を打ったのが、『長い休日』という話数である。折木奉太郎がなぜ省エネ主義になったのか、過去のストーリーを千反田に語るという中で明らかになっていく。
奉太郎は、小学生時のエピソードにより、「自分が他人に付け込まれ、利用されやすい人間」であることを悟る。その時から、省エネ主義として「やらなくてもいいことなら、やらない」をモットーに、他人と一定の距離を保つようになったわけである。自分の心を傷つけないための処世術として。
そのエピソードを語った後、千反田にこう伝えられる。
「でも折木さん、わたし、思うんです。…お話の中の折木さんと、いまの折木さん。実は、そんなに変わっていないんじゃないか、って」
結局のところそうなのだ。折木奉太郎はなんだかんだでいつも他人を救っている。この短編集の他の話でも出てくるが、実はこっそりと困っている人を救ってしまっているのだ。本人が掲げている省エネ主義とは裏腹に。だって奉太郎は優しいから。
そのことを千反田えるに告げられることによって、奉太郎は救われたのだと思う。自分の弱い部分を伝えて、それを赦してもらう(あるいは、過去の自分を、今の自分が赦す)ということ以上に、精神の救いは存在していないのではないかと僕は思う。
奉太郎の優しさにはもう一つ優れたところがある。それは、あくまで最終的な決定権は他人に委ねるということだ。奉太郎は、推理によって他人の思考を推測することと、それによって得られた答えがその人の思考とイコールであるとは考えていない。だからヒントやアドバイスは与えても、それを相手が納得し、採用するかに対してはどちらでもいいというスタンスをとる。相手をコントロールしない、という一歩引いた姿勢は、事件の謎にのめり込み、他人に感情移入しすぎればつい見失いがちになる要素である。
その優しさを、『鏡には映らない』『連峰は晴れているか』表題作の『いまさら翼といわれても』の中に見ることができる。
青春につきものの痛さ・苦々しさを感じながらも心が温まるような、降り続いていた雨が上がっていくときのような感覚を得られる、そんな本だったと思う。
ごちゃごちゃ大量に書いてきて何が言いたいかというとですね、僕は、折木奉太郎がとても大好きだということです。叫び出したいくらいに。
※めちゃくちゃ脱線してしまうけど、この本を読んだあとに氷菓のOP1を見たら、その演出意図がわかって泣いてしまった。曲名が『やさしさの理由』ってのもズルいわな…
『君と彼女と彼女の恋。』感想
『君と彼女と彼女の恋。(以下『ととの』)』をクリアした。
2013年発売のゲームに関する感想を2019年1月現在に書くのはどうなの?という感じがしないでもないけど、まぁいいか。
メモ程度に一応書く。
ちなみに『ととの』とそれを元ネタにしたゲーム『Doki Doki Literarature Club!(以下『DDLC』)』のネタバレを大いに含む(というかネタバレしかない)ので、それらを未プレイの人は読まない方が良いのではないかと思う。
僕は割とメタフィクションな作品が好きで、過去にそれなりの作品を消化している方だと思う。
だからこの『ととの』もかなり楽しめるのではないか…とものすごく期待しながらプレイした。
とりあえず結論を先に書くと、僕はこのゲームのノリが合わなかった。
そのためこの感想文は「なぜ僕はととのを楽しめなかったか」というところをひたすら書き連ねる内容になる。
『キャラクターに感情移入できなかった』
ぶっちゃけてしまえばその一言に尽きるんだけど、とにかくキャラクターの行動、そしてそれに伴うストーリーの進行に不満がつのったということです。
■心一の行動原理が謎①
このゲームは、『主人公の心一が美雪と恋人になるか否か』というところを中心にストーリーが動くわけだけれども、まず心一と美雪が結ばれない理由がそもそもに存在していない。
心一と美雪は最初から両思いなのである。
最初の段階でバッドエンドに向かう理由はただひとつ、「自分では美雪とはつりあわない」という心一の心理、ただそれだけである。
最初は「なるほど、心一くんは過去に美雪との間にトラウマを発生させるような事件があって、それで美雪と距離を置いているんだな〜」と思ってプレイしていた。
そういうことが過去にあったと匂わせるような演出がたくさんあったし。
ところがそういう劇的な何かはまったくなかった。
特に何も無いんだけど、心一が勝手に美雪に対して引け目を感じてしまっているというだけの話。
これで二人の結ばれなさ→強制的なバッドエンドに至る道筋に納得するほうが難しくないですか?
■心一の行動原理が謎②
もう上の理由だけでかなり興が削がれてノレなかったんだけど、さらに決定的なのは、アオイルートからラストのメタルートに至る選択肢が謎すぎるというところ。
2周目のアオイルートは正しい選択肢を選ばない限り常に美雪エンドに収束するかたちになるわけだけど、その収束するか否かを分ける選択が「アオイの話をちゃんと聞くかどうか?」というただその一点に掛かっている。
これが個人的に納得いかない。
他の男と寝ているアオイに対する復讐をわざわざ誕生日に行うほど嫉妬深い心一が、アオイの話をちゃんと聞く(しかもその内容はにわかに信じがたいもの)だけですべてを赦して謎の3Pプレイに至るのは奇妙としか言いようがなかった。
ちょっと会話しただけで自分のなかのわだかまりを解消できるような器の人物なら、あんな復讐劇を考えて実行したりしないでしょ…何なんだよ心一くん。
■責任の所在はどこに?
『ととの』を『ととの』たらしめているのは第4の壁を突破するメタ演出にあるわけだけれども、そうしなければならなかった理由が薄いと感じた。
そもそもあらゆるノベルゲームには選択肢があり、最終的にどのような結末に至るかはプレイヤーの意志に委ねられている。
一方向的な小説や映画と違い、ノベルゲームであるという時点でその世界に介入しているわけである。
(各プレイヤーがそこまで自覚しているかは知らないけど)
だからメタ演出が入るかどうか?を除けば、すべてのノベルゲームはメタ構造を最初から内包しているとも言える。
じゃあメタ演出は何を演出しているのか?
それはプレイヤーに対する『選択すること、世界を変革させることに対しての責任表明』ということである。
「この世界における結末がこうなったのは、プレイヤーであるあなたの選択の結果なのだ。その責任をきちんと自覚するべきだ」と訴えかけているわけである。
(このあたり、UNDERTALEをクリアした人ならよく分かる感覚だと思う)
『ととの』においてプレイヤーが取るべき責任、それはアオイの行動を『止めなかった』ことである。
そして止めた場合の結末、それは冒頭に書いたとおりバッドエンドに収束する。
この構造、納得できますか?
少なくとも僕には出来なかった。
自分の選択が間違っていたという前提があり、その責任に対する負い目があるからプレイヤーは悩み苦しむことができる。
それが心に残るゲーム体験となる。
『ととの』にはそれがなかった。
正直言えば選択肢を選ばされているという感覚がかなり強かった。
それは上に書いたように心一の行動原理が理解し難いことと、基本的にルートが一本道であり、プレイヤーの選択の余地はほとんど無かった(これは選択『肢』の問題ではない)という部分が大きい。
■美雪さん、『君』って一体誰ですか?
と言うように、ゲームをプレイしていて選択をしている実感があまりわかないまま最後のメタルートに入った結果、美雪が語りかけている画面の前の『君』と、プレイヤーである僕がほとんど一致しないということになってしまった。
だからメタルート内で行われる美雪のあらゆる行動が誰に向けられたものなのか、僕にはわからなくなってしまった。
これで感情移入しろというのはなかなかに酷である。
唯一感情移入できたのは美雪が画面越しにプレイヤーとエッチを行うというシチュエーションである。
まぁそこで発生した感情は「かわいそうだなぁ」という憐憫であり、愛おしいとかそういうポジティブなものではなかったけど…
■究極の2択?
そういう諸々をもってラスト、アオイをとるか美雪をとるかの、一度切りの選択肢が発生する。
これはゲームをリセットしない限り片方の結末しか観ることの出来ない究極の選択肢である。
ここでプレイヤーは熟考の末に心を痛めながら片方の結末を捨てることになるわけである、このゲームに没頭できていればな。
僕としては心一にもアオイにも美雪にも感情移入できなかった結果、『限りなくどっちでもいい』としか捉えられなかった。
そして選んだその結末も、予想を上回ってくるような衝撃的なものではなかった。世界なんて元に戻さず、むしろできるだけの改変を重ねて、二人にとって都合のいいセカイを作ってしまえばよかったのに…
■まとめ
というわけで、僕は『君と彼女と彼女の恋。』はあまり楽しめなかった。
ギミックとしてのメタ演出は面白かったけれど、それとストーリーがうまく組み合わさって無かったように感じた。
まぁ僕はノベルゲーはそれなりにやってきたけど、エロゲーはあんまりやってなかったので、エロゲリテラシー不足でメタエロゲーとして楽しめなかったという部分はあると思う。
そして後発であるDDLCを先にプレイしてしまっていたのも悪影響を及ぼしていたのかもしれない。メタルートに斬新さを感じられなくなってしまったわけだし。
ただ、そのプレイ順を抜きにしても、DDLCの方がはるかに出来が良かったと思う。
それは、登場人物の行動原理の明確さであり、狂った世界をリセットする手段の面白さであり、何より『僕』が存在せずに『君』だけだったことである。
君と彼女と彼女の恋。-Song Collection- 『君と彼女と彼女の歌。』
- アーティスト: 岩瀬敬吾,Swinging Popsicle,多田葵,いとうかなこ
- 出版社/メーカー: インディーズレーベル
- 発売日: 2013/08/28
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